大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和58年(ネ)1751号 判決 1988年4月25日

控訴人(被告) 豊嶋英行

訴訟代理人 井上勝義 外一名

被控訴人(原告) 豊嶋みや

訴訟代理人 大谷昌彦

主文

原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は主文と同旨の判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上及び法律上の主張は、次に付加する外、原判決の事実摘示と同一であるから、ここにこれを引用する(ただし、原判決一〇枚目裏五行目、同一一枚目表二、三行目、同五、六行目の各「持分二分の一」をいずれも「持分(二分の一)の全部」に改める)。

(控訴代理人の陳述)

仮に、贈与の主張が認められないとしても、被控訴人の控訴人に対する本訴請求は、信義則に反し、かつ、権利の濫用であるから、許されない。

即ち、被控訴人は、控訴人らに対する本件相続財産の移転を目的として、本件相続放棄の申述をし、その意図が実現された。その限りにおいて、被控訴人の意思表示に何らの瑕疵もない。しかるに、被控訴人は相続放棄の無効を奇貨として、本件相続財産を支配利用している控訴人から、本件相続財産を取り戻そうとしているのである。もしこのようなことが許されるのであれば、被控訴人の相続放棄を信頼して、若年でありながら、長期間にわたり平三郎の負債や相続税を支払いながら、ガソリンスタンドを経営してきた控訴人の苦労及び財産関係は、ことごとく覆される結果になる。しかも、被控訴人は相続放棄の代償として、本件相続財産のうちの二筆の土地(合計約一五八坪)について、控訴人から贈与を受けているのである。

(被控訴代理人の陳述)

争う。

控訴人は本件相続財産の取得を強く希望して、被控訴人に対し相続の放棄を迫り、遂には脅迫をしたり、暴力を振るうまでになつた。そこで、被控訴人は控訴人に、本件相続財産を取得した場合には、被控訴人に孝養を尽くし、その生活を保証し、将来弟や妹の面倒をみるという条件を確約させたうえ、本件相続放棄をしたのである。しかるに、控訴人は、被控訴人に孝養を尽くすどころか、ことあるごとに乱暴を働き、右約束を全く履行しなかつた。これらの事情によれば、信義に反するのは控訴人の方であり、控訴人を保護すべき理由は全くない。

(証拠関係)<省略>

理由

一  被控訴人の子である平三郎が昭和三八年八月中ごろ行方不明になり、昭和四一年四月ごろ自殺死体で発見され、同年四月二〇日に同人の死亡の日を昭和三八年八月一五日とする死亡届出がされ、その旨戸籍に記載されたこと、平三郎には妻子がなく、同人の父与五郎は既に死亡しており、母である被控訴人が唯一の相続人であつたこと、昭和四一年当時、平三郎の直系尊族としては被控訴人以外に与五郎の母なつが生存しており、被控訴人が相続の放棄をした場合には平三郎の遺産はすべてなつにおいて相続することとなる関係にあつたこと、しかるに、被控訴人は、自己が相続の放棄をした場合には平三郎の遺産は被控訴人の子であつて平三郎の弟妹に当たる和代、控訴人、新次及び百子が相続することとなるものと誤信し、和代、控訴人、新次及び百子と相談の上、平三郎の遺産を右和代ら四名に相続させる目的で東京家庭裁判所に相続放棄の申立てをし、「申述人(被控訴人)としては平三郎の弟や妹に相続させたく、したがつて、自分は相続したくありませんのでここに相続放棄の申述をします」と記載した相続放棄申述書を提出し、昭和四一年八月一日、同裁判所の審問期日において、「被相続人の経営してきた事業(モービル石油スタンド)を同人に代わつて行つてきている二男英行(控訴人)と他の子どもたち(和代、新次及び百子)に相続をさせたく、私は放棄することにしました。」旨陳述し、被控訴人の相続放棄の申述は同日受理されたこと、原判決別紙物件目録(一)ないし(一三)記載の土地及び建物は平三郎の遺産の一部であるが、控訴人は(二)を除くその余の同目録記載の土地及び建物につき相続を原因として所有権移転登記を経由していること、以上の事実については当事者間に争いがない。

二  被控訴人は、被控訴人がした相続放棄の申述は法律行為の要素に錯誤があるものとして無効である旨主張して、控訴人に対し右相続放棄の無効確認を求めているところ、右訴えの適否についての当裁判所の判断は、原判決五枚目裏九行目冒頭から六枚目表九行目末尾までの説示と同一であるから、これをここに引用する。

三  次に、被控訴人がした相続放棄の申述に無効原因があるかどうかについて考察すると、相続の放棄は、家庭裁判所に対する申述という形式でその意思を表示しなければならず、また、同裁判所がその申述を受理することによつて、はじめてその効力が生じるのであるが、その性質は、あくまで法律行為であるから、これについて民法九五条の適用があるのは当然である(最高裁判所昭和三六年(オ)第二〇一号、同四〇年五月二七日第一小法廷判決・家裁月報一七巻六号二五一頁参照)。そして、相続放棄という制度が、遺産の債務超過等の場合に推定相続人に当該遺産の相続を拒否する自由を与えるものであることは、疑いをいれないが、その機能においては、現に特定の共同相続人に遺産を集中的に承継させるため、多く利用されていることを無視することはできない。そうであるとすれば、相続放棄が特定人に遺産を承継させる意図でなされた場合、かかる相続放棄の結果、客観的、最終的に誰が相続人になるかは、当該相続放棄者にとつて本質的に重要なものというべきである。もつとも、かかる場合、相続の放棄をした結果、自己が相続人でないものとして扱われるという限度においては、当該放棄者の内心の意思と表示との間に不一致は存しないのであるから、本件のように、当該放棄の結果、法律上正当な相続人として認められるべき者が誰であるかに関する錯誤は、相続放棄をするに至つた動機に存するものといわざるを得ないが、相続放棄が講学上いわゆる相手方のない単独行為である点に着目するならば、かかる動機は、少なくとも相続放棄の手続において表示され、受理裁判所はもとより、当該相続放棄の結果反射的に影響を受ける利害関係者にも知り得べき客観的な状況が作出されている場合においては、表示された動機にかかる錯誤として、民法九五条により当該放棄の無効が認められるものと解するのが相当である。

これを本件についてみるに、前記認定のとおり、被控訴人が相続の放棄をした場合には平三郎の遺産は真実はなつがすべて相続することになるにも拘わらず、被控訴人は、平三郎の弟や妹にその遺産を承継させる意図の下に、この意思を東京家庭裁判所における審問の中で明確にしたうえ、相続放棄の申述をしているのであるから、被控訴人がした本件相続放棄の意思表示は、民法九五条にいう法律行為の要素に錯誤がある場合に該当するものといわざるを得ない。

四  そこで、控訴人の贈与の主張について判断する。

控訴人のこの点に関する主張は、要するに、被控訴人が相続の放棄をすることによつて、控訴人を含むみやの子らが平三郎の遺産を直接承継するようになることを、実質的にみて贈与と評価すべきである、というにすぎないものである。それ故、贈与そのものを直接認定しうるような証拠は存在しない。のみならず、みやが贈与をするためには、平三郎の遺産を一旦相続することが必要である。しかるに、前示のとおり、みやはその相続を拒絶したのである。また、控訴人を含むみやの子らが平三郎の遺産を共同相続しても、控訴人が特定の遺産を単独で相続するためには、共同相続人の間で、遺産分割の協議をすることが必要であるが、これには法律上みやの意思の関与を必要としない。これを要するに、みやは当時贈与をなしうる立場にないことを、十分認識していたというべきであるし、また、みやの意思のみでは、控訴人に対する贈与を実現することも、できなかつたのである。

したがつて、控訴人の右主張は採用することができない。

五  次に、控訴人の信義則違反及び権利濫用の主張について判断する。

いずれも成立に争いのない甲第二〇号証、第二二号証の四、七、一一ないし一三、第二三号証の一ないし八、乙第一号証、第六、七号証の各一、二、第八ないし第一三号証、第二二ないし第二七号証、第二八号証の一、二、原本の存在及びその成立に争いのない甲第一〇号証の一、原審における控訴人本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる乙第五号証、当審における控訴人本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる乙第一四号証、原審証人榎本精一、当審証人三原道幸の各証言、原審及び当審における控訴人、同被控訴人(但し、後記信用しない部分を除く)各本人尋問の結果を総合すると、次の事実を認めることができる。

(1)  平三郎はそれまで勤めていた証券会社を退職して、祖父豊嶋新蔵から贈与を受けた土地において、ガソリンスタンドを経営することを計画し、昭和三八年三月七日豊島物産株式会社を設立して、同年五月一七日提携先のモービル石油株式会社(以下「モービル石油」という)との間で、石油製品等の販売契約等を締結したうえ、同会社から金二〇〇〇万円を借入し、三階建のビルを建てる等して、そのための設備を整えることにした。(2) 控訴人は同年三月に高等学校を卒業したものであるが、平三郎からガソリンスタンドを手伝つてほしいと依頼されたので、同年七月初め頃までにモービル石油の訓練センターでマネージヤーコースの受講を終了し、同年八月一五日には危険物取扱者の試験を受けて、その免許を取得した。(3) ところが、新蔵が同年六月二〇日死亡すると、平三郎は、新蔵の相続問題、前記ビルを建てるについて母屋を取り壊すのに親族の一部から異議がでたこと、その他モービル石油との契約条件についての不安等からノイローゼ状態になり、同年八月一五日頃から行方不明になつな。(4) その後、モービル石油から控訴人及び被控訴人外五名を債務者とする仮処分申請がなされたが、右事件は同年一二月二七日裁判上の和解により終了した。しかし右和解条項によると、豊島物産株式会社がモービル石油の販売代理店をやめたときは、控訴人ら豊嶋家の一族はその住居である右ビルを明け渡すことになつていた。そこで、控訴人は未成年とはいえ、平三郎が現れるまでは自分がやる外ないと決意し、昭和三九年四月六日よりガソリンスタンドの営業を開始した。(5) 昭和四一年四月一九日になつて平三郎は自殺死体で発見された。控訴人はこれを機に、モービル石油にたいする借財を返済して、廃業したいと考えたが、賛成する者はいなかつた。当時被控訴人は宗教活動に熱心であり、新次は家を出ていて、あまり手伝う気がなく、百子は高校生であつて、営業の中心になるのは、控訴人をおいて外になかつた。(6) 被控訴人から相談を受けていた和代の夫三原道幸は、モービル石油との関係からいつても、控訴人に営業を継続させる外ないと考え、控訴人に平三郎の遺産の大半を承継させることで、モービル石油に対する負債と相続税を負担することに躊躇する控訴人を納得させ、被控訴人に対しては、控訴人に被控訴人の老後や弟妹の面倒をみさせるということで説得し、弁護士榎本精一の意見も徴したうえ、被控訴人に相続放棄の手続きをすることを了承させた。(7) もつとも、控訴人は昭和四一年八月一日被控訴人の老後を考えて被控訴人に対し、(一)板橋区赤塚新町二丁目五一〇番一、宅地三五三・七一平方メートル、及び(二)同所五一〇番三、宅地一六八・〇〇平方メートルを贈与した。また、平三郎の遺産のうち、現在、(一)同所五一一番四、畑五九平方メートル、(二)同町三丁目一三四番一、畑一〇五平方メートルは新次の所有名義になつており、(一)同町二丁目五一一番二、宅地四一・〇〇平方メートル、(二)同所一三四七番三、公衆用道路三五平方メートル、(三)同所一三四七番五、畑一〇八平方メートル(原判決別紙物件目録(七)、(一一)、(一二)記載の各土地)の各二分の一、及び(四)同所一三四七番四、畑九九平方メートルは百子の所有名義になつている。(8) ところが新次がガソリンスタンドを手伝うようになると、控訴人との間で紛議が発生し、これに関連して、控訴人が被控訴人に暴力を振るうこともあつた。このような事情のため、控訴人は昭和四五年一一月二五日から昭和四六年二月頃まで及び同年七月から昭和四八年一月までの間、ガソリンスタンドの経営をしなかつたことがあつた。被控訴人と和代は昭和四九年五月二五日、四五坪の土地を与えることで新次に営業面から手を引かせようとしたが、新次が承知しなかつたため、結局実現しなかつた。(9) 被控訴人は、いずれも控訴人を相手どり、昭和五一年九月一〇日東京地方裁判所に生活妨害禁止の仮処分を申請したり、昭和五六年六月頃東京家庭裁判所に相続廃除の申立てをしたが、いずれも認められなかつな。(10)控訴人は、昭和五二年七月一〇日以降豊島物産株式会社の代表取締役に就任し、名実ともにガソリンスタンドの経営に従事しているが、モービル石油に対する金二〇〇〇万円の貸金債務については、利息は支払つているものの、元金は未だ返済していない。一方、被控訴人は賃料収入で生活をしている。

以上の事実を認めることができ、右認定に反する原審及び当審における被控訴人本人尋問の結果の一部は、前掲各証拠と対比して信用することができず、他に右認定を覆すに足りる的確な証拠はない。

右認定事実によると、控訴人は若年のため、モービル石油に対する借財を負担してまで、ガソリンスタンドの経営を引き受けるのに躊躇を感じていたにも拘わらず、平三郎の遺産の大半を承継するということで、やむなく承知したものであること、被控訴人の相続放棄には動機の錯誤が存し、登記申請手続に遺漏があつたとはいえ、本件各不動産の登記名義が控訴人になつているのは、正しく被控訴人の意図していたところと合致していること、被控訴人の老後や弟妹の面倒をみるということは、被控訴人及び三原道幸の希望であつたにすぎず、平三郎の遺産を承継する条件であつたとまでは解されないこと、もともと本件紛争は、控訴人と新次との軋轢に端を発し、被控訴人が新次に加担したため、拡大したものと推認されること、被控訴人の生活は賃料収入により安定しているのに対し、本件各不動産の所有名義を被控訴人に返還するとすれば、控訴人はモービル石油に対する信用を失い、営業面で苦境に立たされることが明らかであつて、このような事情を総合的に勘案すれば、被控訴人が、同人のした相続放棄につき錯誤による無効を主張して控訴人から本件各不動産の取戻しを図ることは、権利の濫用に当たるものとして許されないものと解するのが相当である。

六  右によると、被控訴人は、なつ及びその承継人に対しては被控訴人がした相続の放棄について錯誤による無効を主張することができるが、控訴人に対してはその無効を主張することができない結果、本件各不動産は控訴人に対する関係では被控訴人の所有に属さないこととなるので、控訴人に対し右相続の放棄の無効確認及び本件各土地について所有権移転登記手続を求める被控訴人の本訴請求は、全部失当として棄却すべきである。

よつて、これと異なる原判決を取り消した上、被控訴人の請求を棄却し、訴訟費用の負担について民訴法九六条前段、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 近藤浩武 裁判官 三宅純一 裁判官 喜多村治雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例